涌宝会大会

 いよいよ明後日、私の同門会であります、「涌宝会大会」が矢来能楽堂にて開催されます。
この日のために、会員一同稽古に励んでまいりました。
10時開演、82歳にて初舞台を踏むシテと、90歳になるワキの二人による、長寿を祝う素謡『鶴亀』に始まり、舞囃子11番・素謡10番・仕舞10番・独吟2番の豪華な(今の私にとっては)会になります。
「大会」と銘打っておりますが、東京・名古屋・岡崎・甲府の各稽古場から会員が参集して、やっとのことで会を催せております。そのうち、東京と名古屋で、年1回ずつ催せるようになることが一つの目標です。
前回までは、私は全部の地謡を謡って、手加減を知らないのでへとへとになっておりましたが、会員のみなさんも、そろそろ発表会自体に慣れてきた頃ですので、ある程度地謡は信頼のおける先輩や後輩にお任せして、今回は体力温存して、冷静にみんなの舞台を見ていようと思います。
急病で残念ながら参加できない人もいますが、不屈の精神で、次回こそは、との連絡がありました。
会の途中、13時半頃に、息子・凜太郎の仕舞『胡蝶』と、会の終わり、16時半頃に、私は舞囃子『唐船』を「盤渉(ばんしき)」の小書を付けて勤めさせていただきます。
凜太郎は今週5歳になりました。3歳で『鞍馬天狗』の花見にて初舞台を勤めましたが、仕舞は初めて。今のところ、能が大好きだと言っておりますが、どうなることやら。厳しい道が待っているぞ。
舞囃子『唐船』は、「盤渉」の小書が付くと、曲中奏される「楽(がく)」という唐楽を模した舞の笛の調子(音の高さ)が、一調子高い「盤渉」という高さになり(普段は黄鐘・おうしき)、スピード自体もやや速くなって、華やかになります。
今回の笛は、森田流の栗林祐輔師にお願いしました。森田流の「盤渉楽」は、大変複雑に構成されており、若いうちに勉強のために一度は勤めたいと常々考えておりました。
宝生流では、盤渉楽は、『唐船』・『邯鄲』・『天鼓』の3番のみ。この3番の能を小書付きで勤めることは、もしかしたら一生無いかも知れませんが、やはり玄人として、いつでも舞えるようにしておくのです。
今週土曜日、ぜひ矢来能楽堂にお運びいただきたいと思いますが、さて、凜太郎の仕舞と私の舞囃子、皆さんにはどちらをご覧いただけますでしょうか。
(もうすでにお互い役者としてのライバル心があったりして・・・)


チョンマゲ

今週土曜日(7月16日)、五雲会(水道橋・宝生能楽堂)にて、『歌占』のツレを勤めます。
 
「歌占(うたうら)」とは、歌を書き付けたたくさんの短冊の中から1枚を引かせ、その歌により占う方法。
シテの渡会某(わたらえのなにがし)は、短冊の付いた小弓を持ち、歌占を生業として諸国をさすらっています。
 
渡会は、ある時急死しましたが、3日後生き返り、地獄の有り様を見てしまったからか、まだ年若いのですが、白髪で登場します。
 
一方、父親を失った幸菊丸(子方)は、故郷の伊勢を立ち出でて、はるばる加賀の国・白山の麓までたどり着き、里人(ツレ)と共にこの歌占を引きます。
まず里人が占を引き、自分の父親の病気のことを尋ねますが、快方に向かうとの結果を聞き喜びます。
続いて、幸菊丸も行方不明の父親のことを占ってもらいますが、もう既に逢っている、との不思議な占。
よくよく尋ねると、この渡会こそ、幸菊丸の父親だったのでした。
 
という、かなり無理な設定。
この曲は、ストーリーなんか半ばどうでも良いのです。この後に続く、シテによる地獄の有り様を舞い謡う、「地獄の曲舞(くせまい)」を見せることに主眼を置いていると言っても過言ではないでしょう。
 
最後は、能の常套手段の例に漏れず、親子伴い故郷の伊勢に帰ってめでたしめでたし。
 
里人であるツレは、いなくたってどうということはない役ですが、物語を引き出す役に終始します。正にワキそのもの。
実際、観世流・宝生流以外では、ワキ方が勤めるようです。
現実の男性なので、面(おもて・能面のこと)をかけない直面(ひためん)で、表情を出すことは許されません。
 
直面は、気恥ずかしいのです。せめてチョンマゲだけでもつけさせてもらえば、役になりきれるのに、といつも思います。
 
他に、『草薙(くさなぎ)』辰巳大二郎・『半蔀(はしとみ)』亀井雄二・『土蜘(つちぐも)』金森隆晋。
正午始まりです。面白い曲が揃いました。ぜひお越し下さい。


わくさん

10年ほど前から、「わくさん」と呼ばれるようになってきました。
何をいまさら、当然じゃないの、とお思いになるかもしれません。
いえ、イントネーションの話です。
「たくさん(沢山)」と同じイントネーション。
私としては、「おくさん(奥さん)」と同じイントネーションだと思っているのに。
これは、『踊る大捜査線』の影響だと考えております。そう、ドラマ内の故・いかりや長介の役が、私と同じ名字の「和久」なのですね。
主演の「青島」役の織田裕二が、劇中「和久さん!」とよく叫んでいたのです。
と言っても、実は私はこのドラマを一度も見たことがありませんでしたので、なぜ皆イントネーションが変わり始めたのか、全く理解できませんでした。
最近では、初対面の方には9割方「たくさん」の方で呼ばれますので、もしかしたら本当は私が間違っていたのかしら、とも思い始めています。
いかりや長介が亡くなった後も、引き続き伊藤淳史が甥っ子役として「和久さん」で登場しているようですから、これは相当年数続きそうです。
フルネームだと、「和久荘太郎(杉良太郎と同じイントネーション)」という風に、音が下がっていくのに、名字に「さん」が着くと、なぜか音が上がっていくのです。
これは、後に続く文字数が少ない場合に起こるのではないかと考えております。
例えば、「谷啓(たにけい)」と「谷亮子(たにりょうこ)」。同じ「たに」という名字でも、前者は音が上がっていき、後者は下がっていきます。
このような研究結果が既にあるようでしたら、ぜひご教示願いたいと思います。
こんなくだらないことを考える暇があるということは、私もまだまだ暇人の領域を出られない凡庸です。