附祝言について

本日は、ちょっと専門的な話題を。

 

謡会の最後は、めでたい文句で結ぶ習慣があります。

先日の甲府・武田神社の謡初にては、留めが『紅葉狩』という鬼の能だった為、附祝言(つけしゅうげん)として、『五雲』を謡いました。『五雲』は、昭和に出来た宝生流独自の祝言小謡。「流れ久しき栄えかな」とめでたく結びます。

但し、その日の番組に他流派の方がいらしたり、会場が他流派のお舞台などのときは、『五雲』は遠慮して、他の小謡を謡います。

附祝言には、『高砂』『猩々』『難波』などが能く謡われます。もちろん、『五雲』ではなく、これらを最初から附祝言として選択して良いのですが、その日の番組内と重複する曲は避けます。

ところで、番組の最後に上記の、『猩々』などの祝言の曲が配されている場合は、重ねて附祝言を謡うことはしません。すなわち、『猩々』が留めならば、その後に『高砂』(千秋楽)の附祝言を謡う、などということはしない、ということです。この点は、誤解されている方が多いようにお見受けします。

また、めでたい文句で結んでいる場合も同様に、祝言は付けません。

さて、ここで疑問が沸くのが、後半が仇討ちの物々しい曲『夜討曽我』。「引っ立てゆくこそめでたけれ」と、表面上はめでたい文句で結んでいますが、このような殺伐とした曲で謡会を結んでも良いのでしょうか。シテの曽我五郎が大立ち回りの末、敵に捕縛されて、幕へ猛スピードで連行される時の最後の文句。これは、謡の文章を熟読するとわかるのですが、大立ち回りが進行してくると、主客転倒して、敵の立場として「めでたけれ」と言っています。

そのような背景はありますが、それとは関係無く、「めでたい」文句で結んでいるので、『夜討曽我』が番組の留めに配されていれば、附祝言は謡わなくて良いのです。16代宝生九郎師の文章としても、そのように書かれています。