人丸・運動会
今日は、『景清』の娘の人丸役を勤めてきました(東急セルリアンタワー能楽堂)。
シテ・大坪喜美雄師、トモ・水上優師、地謡・高橋章師他。
人丸役は、高橋章師のシテで12年前に勤めて以来2回目。
奥伝の曲のツレというのは、大変気を使います。
二部制で、第一部では『山姥・杖之型』(シテ・武田孝史師)の後見を勤めました。
今日は、実は凜太郎の小学校入学初めての運動会でしたが、そのようなことで、日焼けが怖いのと、舞台出演の直前に俗塵の毒気に晒されるのを避けたく、全て妻と義理の母に任せました。
普通に考えたら、情けない父親ですね。日焼けがイヤだから、なんて…。
凜太郎は、40メートル走で3位だったらしく、帰宅してほめちぎってやりました。
また特訓してやろう。
コイキング

5日間、家を空けて深夜帰宅したら、こんな手紙が置いてありました。
大抵の方は、「なんじゃこりゃ」という感想をお持ちになることでしょう。
これは、ポケモン(ポケットモンスター)のキャラクター「コイキング」。
名古屋のポケモンセンターにて期間限定で、ニンテンドーDSに「金のコイキング」をダウンロードしてもらえるのです(この文章だけでも暗号に聞こえます)。
スーツを着たおっさんが、子供ばかりのポケモンセンターにゲーム機を持参して、店員にダウンロードのやり方を聞いている姿。
嗚呼、親バカ。
「だいすき」って・・・。
親の操縦方法を分かってるな、こいつは。
3つの顔
【日記】
3月16日(土)
今日は『野守』シテ。朝起きたら声出ない。風邪かしら。でも奥さんに言うと心配するから言わないでおこう。
何しろ、今日は3つの顔を持つ男だから。
10時から凜太郎の卒園式。9時に行って良い席を確保して、ビデオ係。「思い出のアルバム(い~つの~こと~だか~、思い出してご~らん~、という有名な曲)」を聴くと、我慢しても涙が出ちゃう。俺も幼稚園の卒園式で歌ったな。今日は、自分が32年前に卒園した小田原のこゆるぎ幼稚園の先生が『野守』を観に来てくれる。不思議なご縁。
凜太郎も小学生か。この前産まれたばかりなのに。
16時半から『野守』。そろそろ『野守』モードに入らなくては。14時、「お父さんは、今日お爺さんと鬼になってくるよ」と言い残していざ宝生能楽堂へ。だんだん喉が温まってきたぞ。
装束を着けてもらい、鏡の間で床几にかかり、面を掛けて自分の姿を映す。これ大事な儀式。お能は「なりきっちゃいけない」。そんなことないだろう。自分がなりきらなくて、お客様が入り込めるか。などと、鏡の中の自分の姿を見て余計なことを考える。
前シテ、序章は春の長閑な春日野の雰囲気を出せただろうか。徐々に鬼の本性を現し始めなければ。
作り物に中入。後シテの鬼の装束に着替える。信頼できる後見に着けてもらったので安心。
後シテ、やはり声が出にくいが、明日の名古屋の舞台のことは考えずに、潰すつもりでやってしまえ。あれ、やり過ぎたか。気合が先走ったかな。まだまだ若いからいいか。
ワキも信頼できる人だから受け止めてもらったし、囃子も信頼できるメンバーだから、好き勝手に謡わせてもらった。地謡も凄かった。またこのメンバーで違う曲をやってみたいな。
色々言って下さる先輩たち。ありがたい。まだ見捨てられていない気がする。次も頑張ろう。
19時から、さるご令嬢の結婚披露パーティーに妻と出席。心からおめでとう。心から幸せになってほしい。良い仲間たちと、楽しいひと時。みんな老けたなあ。俺は若いぞ。みんなそう思ってるのかな。
明日は始発の新幹線で名古屋宝生会。そろそろ寝よう。
良い仲間
今宵、「新旧助手会」という名の楽しい親睦会がありました。
当ブログには、今までほとんど書きませんでしたが、2年間、東京藝術大学音楽学部・邦楽科の助手を務め、この3月で任期満了します。
様々な専攻(長唄・長唄三味線・邦楽囃子・生田流筝曲・山田流筝曲・日本舞踊・尺八・雅楽・能楽観世流・能楽宝生流)にそれぞれ助手がいて、私がほぼ最年長でしたが、皆忘れ難い良い仲間です。
朝8時半から18時の勤務を週2日。それ以外にも様々な演奏会や、試験・入試などの助演・伴奏・事務仕事があります。日にちは取られましたが、ただ能の道に精進するだけでは得ることのできない経験をたくさんさせていただきました。
素晴らしい教授陣や講師陣とも交わる機会をいただき、大変勉強になりました。
また、先生方と身近に接して、いかに現在の大学の先生が大変なご苦労をなさっているかがわかりました。
まだ3月末まで、入試や御前演奏などの大仕事がいくつも残っていますが、何だか名残惜しい気もします。
このような機会を与えてくださった、能楽宝生流教授の武田孝史師に心より感謝いたします。
おはなし
一昨日書きました、寝床で面白い話をして大爆笑して笑顔で子ども達が眠りにつく話。
ネタは数々ありますが、一番人気は、しずかちゃんが部屋でスーパーボールで壁当てして遊んでたら、口に飛び込んで飲み込んでしまい、それをのび太とドラえもんがスモールライトで小さくなって、取りに行くお話。
まずドラえもんのオープニングテーマ(古いバージョン)から始まるのですが、凜太郎は「そんなのいいから早くお話を」とニベもないけど、下の娘は一緒に唄います。
他にも藤子不二雄ネタや桃太郎ネタがありますが、大抵最後は下ネタで終わります。
何度か、凜太郎に
「おとうさん、能楽師のクセに下品」
と言われたことがあります。
「能楽師のクセに」というのは、ジャイアンが多用する「のび太のクセに」の影響を受けているのでしょうか。そのような悪い言葉、私は教えた覚えがありません。
また、能楽師は上品でなければならない、という観念が感じられますが、これもいつ覚えたのでしょうか。私は言葉で教えた覚えはありません。
しかしながら、そのうち子ども達にも人格を疑われますから、『ごんぎつね』や『かさこ地蔵』のようなお話を早く仕入れないと…。
父のこと2
(つづき)
私が能の道を選んだ時、父は、息子が未知の世界に足を踏み入れるのですから、さぞ不安だったろうと思います。
私が内弟子修行に入る直前にバブル経済が崩壊して、まだ世の中がそれを信じられなくてもがいていた時、日本の終戦から高度経済成長期を歩んだ証券マンの父は、多少無常感を感じていたのか、人生金儲けが全てではないから、お前の選んだ道は正しかった、と漏らしたことがありました。
現に私は今、自分の信じる道を歩んで、幸せですし、一度も止めようと思ったことや、後悔したことはありません。
数々の素晴らしい出会いがあって、みな私を引き立ててくれて、自由過ぎると言われながらも面白おかしく生きています。
凜太郎は、きっと私と同じようにはいかないでしょう。たかが二代目とはいえ、生まれながら能の道を歩んでいるのですから。
今は能が大好きと言っていますが、このままいくのはそう簡単ではありません。
凜太郎も好きな道を歩めば良いのです。もちろん好きになるように仕向けて、能の基礎は徹底的に身に付けさせますが。
今の私は、趣味と言ったら「能」と「家族」くらいですが、昔の私を知っている方はご存じの通り、数多くの趣味や道の中から、この道を選んで職業にしただけで、ただ好きなことをやっているだけです。
毎朝、毎晩、食事の前に、子ども達と私たち夫婦は、父の遺影を飾ったお仏壇に花を手向け香を焚き、お参りしています。
反抗期が来た時に、頃合いをみて父の話をしてやろうと思います。
父のこと
今月末、父の祥月命日があり、他界して10年になります。
私の父は、能楽師ではなく、普通のサラリーマンで、いわゆる転勤族でした。名古屋ではなく関東の生まれで、父の転勤に伴って、家族も横浜から小田原・東京・仙台・名古屋と移動したのです。
野球と時代劇をこよなく愛し、子供から見てもちょっと優しすぎるのでは、と思うくらい穏やかな優しい人でした。
私の妻とは、生前何度か会っていて、父は大変気に入っていましたが、結婚式に出ることなく他界してしまいました。
まだ私が内弟子修行の真っ只中で、舞台出演(能『鞍馬天狗・天狗揃』の天狗役)の為、博多行きの飛行機に乗り込むタラップで携帯電話に訃報を受けましたが、舞台人の宿命でもあり、顔を見ることなく、別れました。
もう少し長生きすれば、孫を抱くこともできただろうに、私が一本立ちしたところも見せてやれただろうに、と時々思います。
親孝行したい時に親はいないと言いますが、本当にその通りです。
今こんなことを思うのは、私が父親になったから。いや正確に言うと、父親の自覚がやっと出てきたから。
子を思う父親の気持ちというものを考えた時に、どうしても故人に想いを馳せてしまいます。
毎晩布団の中で面白い話を聞かせてくれて、子ども達は大爆笑してニコニコ眠りにつく。
今私は同じことを自然にしています(毎晩ではないのが残念ですが)。
(つづく)
愚か者よ…
徹夜で黒川能を観て帰京し、羽田空港から子ども達の幼稚園のお遊戯会に直行したことは昨日お伝えしました。
我が子の成長を実感してまなじりが熱くなり、ごほうびに外食して帰ったあとに、1日早く豆まきをする予定でしたが、今から考えると40時間ほどほぼ一睡もしていなかったので、豆まきをする気力が無くなり、子ども達をお風呂に入れて寝る準備にかかりました。
娘と布団に入ると、いつものおもしろいお話をしてくれとせがむので話し始めましたが、途中で気を失ったらしく、明朝妻から聞いた話では、
娘は「おとうさん、ゆさゆさしても起きないから、電気の紐をカチカチ引いてあげて、ドアを閉めてあげた」
と言って、おかあさんの布団に入ってきたそうです。
黒川能の最中は祭の高揚か、不思議と眠くならなかったのですが、子どものお遊戯会では、自分の子どもの出番以外は睡魔を払いのけるのに必死で、心の中で数珠をサラサラ押し揉んでいました。
が、帰宅したら遂に天に召されるように眠りについてしまいました。
翌朝、スッキリと目覚めて復活!元気に岡崎と名古屋のお弟子さんの稽古に行って帰ってきました。
まだまだ徹夜で試験勉強もできると自負していましたが、無理ですねこれは。
マッチ(近藤真彦)の古い歌がよぎります。
「愚か者よ、今夜は、眠れよ」
黒川能2

黒川能・王祇祭で付けていたマスク。
2つとも真っ黒。
かなり大きい蝋燭5・6本を、18時から朝方5時まで、11時間灯し続けるので、目には見えませんが煤(すす)がすごいようです。
私達は、少し遅れて入場したのですが、観客が皆、昔の不良グループみたいな黒いマスクをしているものですから、「あ、白いマスク持ってきちゃったけど良いのかな」と一瞬考えましたが、途中お手洗いに立ち、鏡を見ると、自分もちゃんと不良グループの仲間入りしていました。
6時間くらいで一度 取り替えましたが、やはりすぐに真っ黒。これでマスクをしていなかったら、肺はどうなるんだろうと、またいらぬ心配をしました。
演者はもちろんマスクをできません…。
後の予定は、
7時過ぎの飛行機で帰京して、10時からの子ども達の幼稚園のお遊戯会に直行
ですので、観世流の方のお計らいで、彼の定宿の温泉に(超短時間でしたが)入り煤を流し、庄内空港に向かい無事帰京し、何事も無かったかのようにお遊戯会に参りました。
黒川能
黒川能の王祇祭を観てきました。無泊徹夜で。
いつかは本場で観てみたい、と昔から思っていたのですが、観世流のある方から、ぎりぎりの旅程になるがいかが、とお誘いいただき、チャンスを逃すまいと、ある狂言方を含めた男3人で。
カルチャーショックを受けました。自分の舞台に生かすとか、芸を盗むということではなく、純粋に一観客として、大いに楽しんで、お神酒をいただき拍手もしました。
「能を観る」というよりも、「お祭りに参加」しているという実感があります。
演者も郷土芸能らしい大らかさがあり、各人がプライドを持ってしていることに感心しました。
これが丸々昔のやり方だとはもちろん思いませんが、何かヒントがあるような気がします。
(つづく)
