能『花月』舞台写真(平成29年1月15日 久良岐能舞台)

先日(平成29年1月15日)の、久良岐能舞台における、能『花月』の舞台写真(撮影・松浦文生氏)です。

至近距離からの撮影により、独特の構図で、私自身の「こう表現したい」という形を捉えて頂いていると感じます。

花月2

少年・花月の登場。

 

花月1

清水寺門前の者(アイ狂言)との「恋の小歌」

 

花月3

花を踏み散らす不粋な鶯を射ようと‥

 

花月4

清水寺の縁起を謡い舞う。

 

花月6

花月5

鞨鼓の舞

 

花月7

簓(ささら)の舞


能『歌占』舞台写真

去る平成28年6月19日名古屋宝生会定式能にて、能『歌占』を親子で勤めました。

 

歌占1
子方・幸菊丸 和久凜太郎

歌占2
生き別れた父親の行方を、占い師(シテ・渡会家次 和久荘太郎)に判じてもらう。まさかこれが父だとも知らず・・。

歌占3
親子邂逅の後、ツレの所望により地獄の曲舞を舞い、トランス状態のシテ。

歌占4
直面(ひためん。面を掛けないこと)

 

通常、『歌占』は宝生流では「若男」(または「今若」)という面を掛けるのですが、今回、熟考し、師匠とも相談の上、直面を選択させて頂きました。

伝書にも「直面ニテモ」とあり、過去に直面の例は数々有るのですが、いずれも年配の場合がほとんどのようです。

私は、若輩の上、『歌占』は初演ですので、「直面とは生意気」と受け取る方も恐らく少なからずいらっしゃることと思いますが、この曲のドラマトゥルギーを考えたときに、これは逆だろうと。若い役者だからこそ、面を掛けない方が効果が有ると思いました。

急死して地獄を見た後に生き返ったために、若いのに総白髪という、怪しい出で立ちでの、物売りのような登場シーンや、後半の、トランス状態で舞う地獄の曲舞、更に、神の責め苦に遭うシーンなどは、面を掛けていた方が効果が有り、また私などは面に助けられるところ(相貌が未熟の為)だと思いますが、中盤に、親子だと判明して、子を抱きしめるようなシーンでは、どうしても面が浮き、まるで幽霊の父親と対面しているように見えるのです(ちょうど『生田敦盛』の如く)。

ましてや、今回は本当の親子で勤めさせていただくという、おそらく一生に一度のチャンス。
ご批判を承知で、直面にさせて頂きました。

 

ただ後日・・・。親子が顔が似ているので、登場した途端、

 「(親子だと)バレバレじゃん。」

とある方からツッコミが入りました・・・。それではドラマになりませんわ。