5月31日(日)『満仲』(セルリアンタワー能楽堂)
来る5月31日(日)、13時開演、セルリアンタワー能楽堂にて、希曲『満仲(まんじゅう)』が演じられます。
詳細は以下をクリックして下さい。
http://www.ceruleantower.com/nohtheater_kikaku_schedule.html#2015housyou
息子の凜太郎が子方の一人、幸寿(こうじゅ)を勤め、私は地謡(後列)。
幸寿は、曲の半ばで父親・藤原仲光(ふじわらのなかみつ)に止む無く殺されてしまう役で、途中切戸口から退場します。主君・多田満仲(ただのまんじゅう)の子供・美女丸(びじょまる)の身代わりとなるのです。
美女丸は、学問の為に寺に預けられましたが、武士としての稽古に明け暮れ、学問を顧みないために、満仲(ツレ)は家来の仲光(シテ)に、美女丸を殺すよう命じます。
幸寿が殺された後、美女丸は比叡山延暦寺の高僧・恵心僧都(えしんそうず)にかくまわれますが、後日恵心は美女丸を伴い満仲の御所を訪れ、親子の再会を果たします。
この際、満仲は「幸寿が死んだときになぜお前も一緒にしななかった」と叱責します。すると恵心は、「ここは何を措いても、幸寿の弔いと思い美女丸をお助けなさい」と泣いて懇願します。
それによって、満仲は美女丸を許しますが、この後恵心は仲光に向かって「めでたい折なので、一指し舞を舞いなさい」と、とんでもないことを言います。
この一連のやり取りが、この曲の非常に理解に苦しむところで、全てが封建社会の建前や武士の意地であることを汲んでも、許せない、と個人的に(子を持つ親だからこそ)感じるところです。
封建時代の、主君の為には命をも賭す、現代人にはとても理解できない感覚の中で構成されており、悲しい曲です。それゆえ、ちょっと後味が悪い面がありますが、人間の性(さが)のエゴイズムで、人が悲しみに暮れる姿に同情しつつ、客観的に、傍観して演劇を楽しむことが出来るのでしょう。現代の小説やドラマの方が、余程残酷に構成されているかもしれません。「能にしては残酷」、ということでしょうか。
幸寿を殺す表現は、能らしく、露骨には表現しません。シテの仲光が、我が子の幸寿をめくら討ち(目をつぶって斬る)に斬る型をして、太刀を幸寿の前に放り投げ、すぐさま幸寿役の子方は立ち上がり、切戸から退出し、その残った太刀を幸寿の遺骸としてお客様には想像していただきます。
ところで、凜太郎は今年12月にも『竹雪(たけのゆき)』という希曲で、舞台上で死ぬ役を勤めます(月並能)。大雪の中、意地悪な継母から庭の竹の雪を払うよういいつけられ、家からは閉め出され、雪に埋もれて遂に死んでしまいます。その表現として、白練(しろねり)という、真っ白な装束を横たわった子方の上に頭から足まですっかり掛けてしまいます。
ところが、こちらの曲は、なんと最後に生き返ります!竹林の七賢人の力により・・・。
能には、本当に色々な曲がありますね。